Social Welfare Corporation KUJIRA

  • ことばの種(STさんのつぶやき)

「いいよ」って言ってくれたけど…

5才の女の子、Aちゃんに対して、今でも「ごめんね」と思っているエピソードです。

ある時、Aちゃんが、お友だちの持っているおもちゃを取り上げたように見えたことがありました。

Aちゃんは、おだやかな性格で、ふだんはお友だちからおもちゃをとってしまうような行動はほとんどないお子さんです。

「いつものAちゃんらしくないな。どうしたのかな?」と思いながらも、声をかけてみます。

「おもちゃ、取っちゃったら、お友だち悲しいよ。返してあげよう」すると、Aちゃんは、「うん…」とうなずきながらも、何か物言いたげな表情で私を見つめて、おもちゃを手放しません。

そこで、別のスタッフが、私とAちゃんのやりとりに気づいて、声をあげてくれました。

「そのおもちゃ、Aちゃんが遊んでたんだよね。お友だちに、『今使ってるよ』って、言ったらいいんだよ。」

そうです。

Aちゃんは、お友だちのおもちゃを取り上げたのではなく、取られそうになって困っていたのです。とんだ、濡れ衣です…。

近くにいたスタッフが、経緯を見ていたから良かったものの、本当にAちゃんに申し訳なくて、私は、一生懸命謝謝りました。

Aちゃんは、とっても軽い口調で「え?いいよー!」と、受け入れてくれたのですが…。

皆さんは、このAちゃんの反応を、どんな風に感じますか?

おおらかで、やさしい?

細かいことを気にしない子?

信頼関係ができているから、受け入れられた?

どれも、当てはまるかもしれません。

でも、別の可能性も隠されています。

もしかしたら、「いやだよ!私、傷ついたよ!」という自分の気持ちや、その表現の方法を知らないのかもしれません。

…というのも、小さな子どもは、大人ほど自由自在にことばを操れるわけではないので、自分の気持ちを、的確にことばで表現することは、難しいです。

大人だって、不意に理不尽な叱責を受けると、とっさにことばが出てこないですよね。

(そんなこと、ないですか?)

また、ことばの未熟さは、自分の気持ちを整理することの難しさにも繋がります。

「誤解されて悲しい」「私、悪くないのに叱られちゃってくやしい」という、「ことば」を知らなければ、自分の胸の中の、モヤモヤする、不快な感情を、明確に認識することも難しいでしょう。

もしかしたら、「なんだか嫌な気分だけど、よくわからないから、まあ、いいよ」だったのかもしれまん。

それから(そうでなければいいな…と願うのですが)、こうして誤解されたり、一方的に注意されたりすることが、Aちゃんにとっては日常的で、当たり前のことだったのかもしれません。

今回は、別のスタッフが気づいて、Aちゃんの言い分を代弁してくれましたが、その場にいた大人が私だけだったら、どうなったでしょう?

「ちがうよ」と上手に伝えることができず、あきらめて、お友だちにおもちゃを渡してしまったのではないでしょうか…。

もしも、これまでのAちゃんの、センターや幼稚園・保育園での生活の中で、そんな場面が繰り返されてきたのだとしたら…。

そして、大人が、その誤解や、Aちゃんの言い分に気付かないでいたとしたら…。

大人は、私を咎める(とがめる)存在

大人に誤解されるのは、いつものこと

大人はわかってくれないし、謝らない!

…というのが、Aちゃんにとっての「普通のこと」になってしまうかもしれませんね。

もちろん、これは、私が感じたことであって、Aちゃんがそう言ったわけではありません。

でも、Aちゃんの「どうして、そんなに慌ててあやまるの?」というような、不思議そうな表情を見る限り、私の考えすぎというわけではないような気がしています。

あの日の「いいよ」に込められていた(かもしれない)、Aちゃんの日常、気持ちを想像すると、胸が痛む思いです。

Aちゃん、あの時は本当にごめんね。

今は、「いやだよ。私、怒ってるよ」って、言えているかな?

子ども達の言う「いいよ」は、大人の考える「いいよ」と同じことを意味するとは限りません。

本当に、そう思っているかな?

本当に言いたいことは、何かな?

子ども達と関わるとき、そのことばや行動の背景にある「本当はね…」に気付き(大人が)くみとること、子ども達自身が表現できる方法を伝えることを、心がけています。

くじらブログ一覧へ